November 29, 2009

Rosas 追記

抑制のきいたインプロヴィゼーションは、難しい。少し緊張が行き届かないだけでも崩れてしまう。

平易なものを求めたくない。しかし、高度にコンプレックスなものを見せる試みは容易くはない。

投稿者 raumraum : 03:33 PM | コメント (0)

November 28, 2009

Rosas "Zeitung"

Rosas "Zeitung" にいってきました。

正直、うう〜ん。一瞬、20代の頃と違って、抽象的なパフォーマンスに対する自分の対応力が低下したのかとも思ってしまった。。。どちらかというと、抽象的なパーフォーマンスを好み、ついて行ける方なのですが。

実は、何年か前に来日した際の公演、スティーヴ・ライヒの曲を使った"Rain"(初演は2001)には、今回以上に「うう〜ん」だったのでした。"Fase"(これも曲は、スティーヴ・ライヒ, 1982)の完成度の印象が強いのでしょう。"Rain"では、ライヒの細部にわたる緻密なコンポジションとは対照的に、「雑に見えてしまった」のです。しかし、"Fase"から20年以上経っていて、違うことをやっていて然り、それと単純に比較してもしょうがない。実際の比較対象となるナマの公演を他に知らず、はかりかねたというのが正直なところです。

今回まだ見えていたのは、なにか明解な意図があっての実験の遂行。(もちろん、ケースマイケルだけに、前回もかなりがっちり意図があったんだろうけど)

コントロールと即興の不協和音の中から、何かを交差させていく試み。それは、わかる。しかし、「雑」という表現は的確ではないにしても、とにかく、ようわからない。

難しいのは、即興が入ってくると振付け師の範疇をはみ出すダンサーの力がものをいうわけで、つまり、当たり前なのだが、彼らのインプロヴィゼーションにおける隅々にわたるイメージの詰めの影響は大きいということ。ケースマイケルのような、音楽とダンスの中に生まれる空間のボリュームや時系列のオーガニゼーションを大変厳格に行うことを起点としてきた振付け師において、特に今回のような実験においては、インプロヴィゼーションだからなのか、ダンサーの力量なのか、果たして、また別の理由なのか、具体的に何が成功していて、何が否なのか。「観る側」としては、よくわからない。

けれども、インプロヴィゼーションにおいて、各瞬間がはっきり分かれていることは重要です。- 略 - 振付家デボラ・ヘイと仕事ができたのは、興味深いことでした。私の大きな関心は、常にエネルギーや時間、空間の戦略的な組織化にあったのですが、彼女が特に関心を持っていたのは、ムーヴメントを知覚することです。きわめて重要なのは、具体的な目的に従った決断を下すことでも、そこに可能であった複数の選択肢でもありません。重要であるのは、参照点としての自我、舞台上で中心の位置を占める「私」です。- 略 - ハーモニーの放棄もまた、『ツァイトゥング』の構想においてこの上なく重要な役割を果たしました。実際、音楽と振り付けは、それぞれ無関係に別々に生まれ、その後少しずつ調和するようになりました。音楽と振り付けの組み合わせが、時として、ハーモニーを揺さぶるのです。(Anne Teresa De Keersmaeker, 氷河の上で踊る, 公演パンフレットより)

彼女の言及は、とてもわかる気がするし、彼女の試みがとても明解であったこともよくわかる。でも、あそこで実際に出現したイメージが、果たして、彼女の思い描く、予期せぬ予感としっかり合致していたのか?イメージ通りだったのか否かを計りにくいということが問題なのか、観る側のリテラシーの問題なのか。

でも今回の試みは、むしろ氷河の上を歩くのに似ています。クレヴァスがどこにあるのかは、わかりません。

これも、よくわかる。しかし、「クレヴァス」が、どこなのか、見えてこなかった。果たして、見る側が、予測できないその瞬間(クレヴァス)の訪れ、つまり、"各瞬間がはっきり分かれていること"を察知できなくてもよかったのか。

エキサイティングだけれど、危険でもあります。落ちるとしたら、高いところから落下するのですから。けれども、高いところにいることは、なによりも素晴らしいのです。(前掲)

なんか、自分で全て言ってる気がするけど。

それと、今回テクニカルもうまくいっていたのか?複雑なことを、クリアでシンプルに見せようとするから、何か微妙にずれると簡単なことを雑にやっているように見えてしまう。とにかくわからない。客席にいたケースマイケル自身、始まる直前に客席後ろのテクニカルのところに行ったり、始終多少落ちつかないように。。。これは勝手なこちらの思い込みですが。。。

うう〜ん。また観にいこう。強調しておきますが、Rosasが悪いという話ではなく、比較し続けないとわからないや。とにかく、今回わからなかったという話。

投稿者 raumraum : 11:20 PM | コメント (0)

September 20, 2009

コンドルズ / Condors

コンドルズ
いつもチケットがとれないので、今回は用意周到。

楽しかったー!の一言。

みなさま、芸達者であられる。ゆるくみえる舞台で、みなさまとても気を使っていらっしゃる。なんだか謙虚な方がただなと思ってしまいました。

舞台上の方々も、楽しんでいらっしゃるのが、なんだかこちらも、ゆるくあたたかい。

すっきりするので、みなさまもどうぞ。

投稿者 raumraum : 01:11 PM | コメント (0)

July 28, 2009

マース・カンニングハム逝く / Merce Cunningham is gone

マース・カンニングハムが逝った。また、20世紀を代表する偉大なダンサー、コレオグラファーがいなくなってしまった。90歳とのこと。

一昨年はベジャールがなくなったし、先日はバウシュが逝った。21世紀になって約10年。20世紀は、すでに歴史となっていく。

ご冥福をお祈りしたい。

投稿者 raumraum : 02:51 PM | コメント (0)

July 01, 2009

ピナ・バウシュ逝く / Pina Baush is tot.

昨朝、ピナ・バウシュが急逝した。死の5日前に、癌の告知を受け、10日ほど前の週末には、舞台に立っていたそうである。

想いがけず、少しショックを受ける。「想いがけず」というのも、もし「好み」でいうならば、バウシュの舞台は、むしろ「好みではない」からだ。

バウシュの舞台は「Tanztheater」という名の通り、ダンスの中に演劇的な要素を取り入れた独特のスタイルである。人間の孤独、悲しみ、恐怖、憂い、滑稽さ、弱さといったものの情景、心象風景が描かれる。日本でも強く共鳴する観客は多い。

「誰もがどこかで知っている光景」への共感??観客の普遍的な心情??への無邪気な感動には、いつも、いいようのない違和感を覚える。

というのも、あそこに描かれているものは、結局、ドイツ人にしかわからないのではないかと思ってしまうからである。うまくはいえないのだが。。。。単純に、「他国のものを理解できる訳が無い」という話ではない。

日常生活の中で、折に触れて接してきたドイツ人の(ここではどちらかというと)怒り、悲しみなどの負の感情、微妙な心情の襞を目の当たりにしているような嫌悪感に襲われるのである。あまりにも生々しく、そこには、その文化、言語でしかわからない繊細さかつ乱暴さがあるように思うのだ。それに対する抵抗、バツの悪さ、割り切れなさ、後味の悪さ。

ローカルなものへの表現のディテール。ある土地に根づいた文化、心情といったものを丹念かつ赤裸裸に扱っていくこと。

果たして、「観客」はバウシュの舞台の「何」に、あんなにも歓喜するのか。
その訳を知りたくて、しょうがないからまた行ってみるかと思ったりするのだが。。。。。

そんなことを考えていたら、もはや、かなわなくなってしまった。

投稿者 raumraum : 01:25 PM | コメント (0)

February 04, 2008

バットシェバ舞踏団「テロファーザ」/ TELOPHAZA by Batsheva Dance Company

バットシェバ舞踏団「テロファーザ」(2/2, 神奈川県民ホール)を見に行った。

ひとことで解釈されることを、やんわりと回避する。その時々のシーンの中で、断片的でまとまりのつかない感触がただよう。見終わったあとにも思考する楽しみがのこる、とても良いパフォーマンスを久しぶりに見た。

芸術監督であるオハッド・ナハリン率いるバットシェバ舞踏団は、国際的にも評価の高いイスラエルのコンテンポラリー・ダンス・カンパニーだ。

30人あまりの群舞。基本的な振り付けはあるものの、細部の仕草はダンサーそれぞれの身体性と解釈の中で、フォルムを描きリズムを刻む。それが、同じ動きをしているはずの群衆の中の、とても微細な個人の存在に眼を向けさせる。


私は、観客がどこに注意を向けたら良いか分からないような場所が好きだ。
私は、観客に選択をゆだね、全てを包括することのできない個々の瞬間を撒き散らす。
観るという私たちの体験は、すべての要素を一度に理解できるということとは関係ない
我々はそれをすべて包括できるとは約束されていない。
それは―――幻影である―――ということはできる。
オハッド・ナハリン(公演パンフレットより)


複雑な政治的背景はあるだろう中で、それとは別にあるいはそういったものも含みつつ多くのものの可能性を示唆し、表現としてのパフォーマンスを丹念に、良質に、つくりあげている。と、感じた。

投稿者 raumraum : 09:38 PM | コメント (0)

November 27, 2006

Philippe Decouflé, "SOLO"

Philippe Decouflé(フィリップ・デュクフレ)の「SOLO」を天王洲アイル銀河劇場で見てきました。ここ数年何回も来日していますが、公演を見たのは久しぶり。

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Philippe Decoufléは、1992年のアルベールビルオリンピックのとき、弱冠31歳、新進気鋭の演出家・振付家として開閉会式を手掛け一躍有名になった人。かわいいユーモアのあるコスチュームを着たパフォーマーたち、最後に聖火に点火する天使。ああいうのをセンスの良いということなのだと思ったものです。それからオリンピックの開閉会式は見なければならないものだと、思い込んでいるのですが、以後毎回裏切られっぱなし。

さて、ここ何年かPhilippe Decoufléは何度も来日していますし、幾つかの大学でシンポジウムだったり、ワークショップだったりも実施されて、すっかり日本でもおなじみの演出家になりました。2000年世田谷パブリックシアターで上演された「トリトン」にもみられるように、サーカスの曲芸的な面白さやユーモラスなキャラクターのパフォーマンスは、エンターテイメントとしての舞台を良く計算し尽くしています。だからといって、宙を舞うパフォーマンスが、ただアクロバット的なものというのではなく、夢の中へのいざないとでもいうような、とてもポエティックなもの。。。

。。。これが、彼の舞台への大半の印象ではないでしょうか。それが、今回公開された「Solo」は、「一人で舞台を構成する」ためには何ができるのか、あらためて色々ためしてみた舞台。2003年から改訂を繰り返し再演しているもので、完結したものというより、彼の創作の様々なエッセンスの断片を、ひとつひとつ実験し直してみたという感じ。例えば、ビデオのフィードバックによる映像のディレイ(delay)をフルにつかった演出。アナログビデオの頃、そういうのをみたけれど、最近あまり見なくなりました。そういったビデオのプリミティブな仕組みを活用しながら、像を投影することを丹念にやりなおしている姿勢。映像が何なのか、舞台の空間とは何なのか?柱や壁がなくても舞台空間の構造を幾らでも変換させていくことを、よ〜く知り尽くした上で、40歳半ばを過ぎたクリエイターが、観客の前で丁寧にそういったクリエイティブな試みを披露することには、大変前向きな共感を覚えました。

公演日程:2006年11月25日(土)〜30日(木)
会場:天王洲アイル銀河劇場(旧アートスフィア)

投稿者 raumraum : 01:24 AM | コメント (0)