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November 28, 2009

Rosas "Zeitung"

Rosas "Zeitung" にいってきました。

正直、うう〜ん。一瞬、20代の頃と違って、抽象的なパフォーマンスに対する自分の対応力が低下したのかとも思ってしまった。。。どちらかというと、抽象的なパーフォーマンスを好み、ついて行ける方なのですが。

実は、何年か前に来日した際の公演、スティーヴ・ライヒの曲を使った"Rain"(初演は2001)には、今回以上に「うう〜ん」だったのでした。"Fase"(これも曲は、スティーヴ・ライヒ, 1982)の完成度の印象が強いのでしょう。"Rain"では、ライヒの細部にわたる緻密なコンポジションとは対照的に、「雑に見えてしまった」のです。しかし、"Fase"から20年以上経っていて、違うことをやっていて然り、それと単純に比較してもしょうがない。実際の比較対象となるナマの公演を他に知らず、はかりかねたというのが正直なところです。

今回まだ見えていたのは、なにか明解な意図があっての実験の遂行。(もちろん、ケースマイケルだけに、前回もかなりがっちり意図があったんだろうけど)

コントロールと即興の不協和音の中から、何かを交差させていく試み。それは、わかる。しかし、「雑」という表現は的確ではないにしても、とにかく、ようわからない。

難しいのは、即興が入ってくると振付け師の範疇をはみ出すダンサーの力がものをいうわけで、つまり、当たり前なのだが、彼らのインプロヴィゼーションにおける隅々にわたるイメージの詰めの影響は大きいということ。ケースマイケルのような、音楽とダンスの中に生まれる空間のボリュームや時系列のオーガニゼーションを大変厳格に行うことを起点としてきた振付け師において、特に今回のような実験においては、インプロヴィゼーションだからなのか、ダンサーの力量なのか、果たして、また別の理由なのか、具体的に何が成功していて、何が否なのか。「観る側」としては、よくわからない。

けれども、インプロヴィゼーションにおいて、各瞬間がはっきり分かれていることは重要です。- 略 - 振付家デボラ・ヘイと仕事ができたのは、興味深いことでした。私の大きな関心は、常にエネルギーや時間、空間の戦略的な組織化にあったのですが、彼女が特に関心を持っていたのは、ムーヴメントを知覚することです。きわめて重要なのは、具体的な目的に従った決断を下すことでも、そこに可能であった複数の選択肢でもありません。重要であるのは、参照点としての自我、舞台上で中心の位置を占める「私」です。- 略 - ハーモニーの放棄もまた、『ツァイトゥング』の構想においてこの上なく重要な役割を果たしました。実際、音楽と振り付けは、それぞれ無関係に別々に生まれ、その後少しずつ調和するようになりました。音楽と振り付けの組み合わせが、時として、ハーモニーを揺さぶるのです。(Anne Teresa De Keersmaeker, 氷河の上で踊る, 公演パンフレットより)

彼女の言及は、とてもわかる気がするし、彼女の試みがとても明解であったこともよくわかる。でも、あそこで実際に出現したイメージが、果たして、彼女の思い描く、予期せぬ予感としっかり合致していたのか?イメージ通りだったのか否かを計りにくいということが問題なのか、観る側のリテラシーの問題なのか。

でも今回の試みは、むしろ氷河の上を歩くのに似ています。クレヴァスがどこにあるのかは、わかりません。

これも、よくわかる。しかし、「クレヴァス」が、どこなのか、見えてこなかった。果たして、見る側が、予測できないその瞬間(クレヴァス)の訪れ、つまり、"各瞬間がはっきり分かれていること"を察知できなくてもよかったのか。

エキサイティングだけれど、危険でもあります。落ちるとしたら、高いところから落下するのですから。けれども、高いところにいることは、なによりも素晴らしいのです。(前掲)

なんか、自分で全て言ってる気がするけど。

それと、今回テクニカルもうまくいっていたのか?複雑なことを、クリアでシンプルに見せようとするから、何か微妙にずれると簡単なことを雑にやっているように見えてしまう。とにかくわからない。客席にいたケースマイケル自身、始まる直前に客席後ろのテクニカルのところに行ったり、始終多少落ちつかないように。。。これは勝手なこちらの思い込みですが。。。

うう〜ん。また観にいこう。強調しておきますが、Rosasが悪いという話ではなく、比較し続けないとわからないや。とにかく、今回わからなかったという話。

投稿者 raumraum : November 28, 2009 11:20 PM

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