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May 27, 2007
ル・コルビュジエ展 / die Ausstellung "Le Corbusier" / the exhibition "Le Corbusier"
「ル・コルビュジエ展:建築とアート、その創造の軌跡」(森美術館, 2007年5月26日(土)〜9月24日(月・祝))のオープニングに行った。ル・コルビュジエ(1887- 1965)の生誕120周年を記念する展覧会で、彼が手がけた建築だけでなく、絵画、彫刻、家具など約300点の作品を紹介している。大きな絵画作品、ドローイング、版画などの平面作品や彫刻が多数展覧されているので、コルビュジエのそういった作品を見たことのない人(みたことがある人もだが)には必見。
コルビュジエの絵画や彫刻は軽やかだ。と、いつも思う。絵画やドローイングなどを見ると、コルビュジエが何かを思いついてしまった発想の瞬間、その興奮の瞬間に立ち会っているような気がするのだ。最終的な目的として落とし込まれた作品としての絵画、その気負い、重さを感じるのではなく、思考、発想の喜びを体験できるような気がするのである。
ちょうどこの展覧会には、モジュロールの思想を絵画的に表現した「直角の詩」という版画作品も展示されている。
建築に関しては、建築透視図、再現模型、映像紹介、実物建築空間の再現等、様々な角度からコルビュジエ建築を体験できる。立体的に再現された建築については、それほど面白さを感じなかったが、コルビュジエ自身の描いた透視図やCADセンターの協力をえて視覚化された建築構造の映像などは、大変面白かった。
透視図は、まさにパースペクティヴ(見通し)である。線描きされた建築透視図なのだが、一つ一つの場の質感を確かめて描かれている。パースなのだから、あたりまえではないかと言われてしまうかもしれないが、構築されるべき空間の感触を丹念に確かめながら、空間の見通しをひいているように感じるのである。
CADセンターの制作した建築構造の映像は、建築家のパースペクティヴや絵画・彫刻作品に表出されているような、思想・思考のプロセスを丁寧に可視化していたように思う。
そう、3Dは、必ずしも超リアルズムのためだけにあるのではない。様々な断片的思考、脳裏に浮かぶおぼろげな像、そして、それと連動している感覚といったものを結びつけながら、質感のようなものをイメージ(映像)に起こしていくこともできる。むしろそういったことに長けているのだろうと思う。
会場で流れていた3D映像でも、コルビュジエの面、色彩、光と空間といったことへの思考、体験といったものが、なかなかおしゃれに具現化されている。(失礼な話だが、最初字幕をみるまで、多分向こうで制作された映像に日本語の字幕キャプションをつけているのだと思った。)コルビュジエの椅子に座りながら、彼の思考の映像を楽しめるので、おすすめ。
投稿者 raumraum : 10:31 PM | コメント (0)
May 13, 2007
skype3
ドイツとの交信にskypeを使いはじめて気がついたことがある。今までにも数カ所をネットワークで結んで、リアルタイム通信するといったプロジェクトには参加したことがある。しかし、当時の感覚とは随分とまた違う。
90年代、リアルタイムで遠方と交信することは、まだまだ大変だった。ドイツと日本でtalk(現在のchatみたいなもの)で会話をしようとすると、リモートアクセスによるWindowの接続は、とても不安定だった。いつ切れてしまうかドキドキし、自分の打った文字に答える相手のタイピングには大きなタイムラグがあった。しかし、この不安定さが、距離の実感であり、遠く離れた人と繋がったことへのひそやかな喜びだった。
それが、画像や映像をリアルタイムで送るときには、長期にわたり申し合わせを行い、極力煩雑さをそぎとり、とにかく本番で繋がり「最低限の情報」を交換できれば成功だった。ネット越しの共同作業への夢はまだ遠く、交信できる情報量は微々たるものだった。「繋がり、何かを交換できること」が目的だった。誰かと接続するということは、その接続の安定性が距離と比例していることであり、交信されるべき情報量もその距離に比例していたのである。
ところでskypeを使ってみて、まず驚いたのが音質のよさである。電話なんかよりはるかによいのである。普通に電話しても、IP電話で繋いでも、まだまだ接続の仕方によっては、音質は悪く若干のタイムラグが生じる。それがskypeでは、タイムラグなんてそれこそ関係なく、すぐ間近で電話をしているような音質なのである。相手の動作から生じる音、相手の後ろのドアが開いて誰かが入ってきて話している声、それに答える相手。全てよく聞こえる。
そんな相手とのやり取りの中で気が付いたことがある。相手に伝えるべき情報の編集が、あまりないのである。今まで遠方とやりとりするには、常に的確に伝達するための、事前の情報編集が必要であった。しかし前述のように、skype中に家族との会話がはさまったり、あるいは、skypeのボイスメールに残されたメッセージも「渋滞にはまっちゃってあと30分ぐらいかかる」とか、用件を話す以前の内容がたくさん盛り込まれている。これらの通信内容は、しょっちゅうコンタクトを取っている家族や友人と話しているときのような煩雑なものなのである。
必要な情報量の密度が上がったかどうか別として、近距離にいるときと同じような情報量が増したのは確かだ。
むろんじかに相手と会うことと通信とは別物である。また、時差もあって、確かに距離は存在する。しかし、日常に忙殺していると近距離の家族や友人でも、時間帯が合わず何らかの交信ができないのは普通によくあること。通信というコミュニケーションの手段について考えると、「日常の情報量」が、必ずしも距離の比率とは関係なくなってきているのかもしれない。
そこらへんの感覚の変化、それを観察してみることも、今回のドイツとの共同プロジェクトで、楽しみにしている。