対談1: 向井知子 + 伊藤弘之

音楽の展覧会のことについて

 

向井:今まで、わたしは自分の映像があって、そこに人に音をつけていただくことをしてきました。でも、このプロジェクトでは、今までのところ、まずは、伊藤さんの音楽にイメージを合わせていくことをやってみたわけです。自分の映像をつくっているときには、たぶん自分が最終的に見たいものや、自分との距離で出てくるものを測っていたけれど、今回は「伊藤さんが何を見たか・見ていたか」を想像しようとしているなと思ったんです。伊藤さんの見ていたものを想像できれば、「森」が立ち上がってくるんじゃないかなと。

伊藤:なるほど。音楽には時間軸上の展開が重要な要素としてあるんです。それが、向井さんがつくる作品の起承転結と重ね合わせるときに、音楽がそもそも持っている時間軸上のいろんな推移、形式、構造が作用する部分があるわけですよね。どのくらいのタイミングで、どんな風に変化するかとか。通常は逆で、映像に音楽をつける。MTV方式だと音楽をベースにして、映像がつくられるわけですが、芸術音楽の、少なくとも現代音楽的なジャンルではそのようなやり方はあまりしてきていない。今回のプロジェクトは、映画音楽などども一線を画したスタンスで、あまりやられていなかったやり方だと思いますね。

向井:音楽が時間軸でできあがっていることは承知しているんですが、実は、伊藤さんの音楽から作品をつくっている上では、あまり時間軸を意識していないんです。意識しているのは、伊藤さんが見ていらした風景がどんなものだったか、そしてそこの滞在時間や、呼吸、間みたいなものですかね。

伊藤:滞在時間という感覚は、音楽のことばに置き換えると、構造をつくっていく1つの要素になる。ある場所に滞在しているときに、そこがどんな空間で、どういう種類のものだったのかは、それぞれに何かしら影響があるんでしょう。そこの関連性を、映像と音楽という2つの間でひもづけたり、逆にずらしたりして表現しているんですね。

向井:自分自身の映像をつくっているときも同じように、滞在時間については考えているんですが、伊藤さんの音楽と組み合わせるときに、在り方が変わってきたことを、もう少し意識化してみるとおもしろいのかなあとは思いますね。自分だけで制作しているときはループの映像にして、終わりがないように見せることが多い。そういう意味では、そこにどれだけ滞在時間があるかを見る側に委ねているところがあります。でも伊藤さんの曲には、起承転結があるし、初めと終わりが存在する。そうするとあらかじめその時間を決めなければならなかったですね。

伊藤:そうすると、どう終われるようにしているんですか?特にライブ演奏と組み合わせるときは難しいと思うんですが。

向井:フェードアウトですね、たぶん。5つの章があれば5つを全部パーツに分けて、長めにつくっておいて、どこで切り替わってもいいようにしておくんだと思います。映像同期のシステムを開発してくださる山元史朗さんに、臨機応変に映像の出るタイミングを変えられるシステムをつくっていただきます。ライブでするときなどは、オペレーションを担当する人に、大体このあたりの音で変わるということをお知らせして、その曲調に合わせて操作していただきます。これだと、ライブごとに演奏する速さが変わっても対応できます。ブツッと切り替わるのではなく、前後の映像パーツに、その場に応じて変化できる予兆のようなものを含ませるので、自然な流れになると思います。今回に限らず、いつも、他の人が見たときに「もしかしたら、なにかが起きるかもしれない」という予感を喚起させられるようにして制作していますね。

伊藤:ちょっと極端に言うと、このプロジェクトのおもしろいところは「未体験ゾーン」だと思うんです。だから、僕自身もいくつかの可能性は想像できるけれど、これはこうだからこうなんだという風に言い切れない。そういう意味で未知の領域、予感が絡んでいるような気がします。音楽って芸術の中で最も抽象性が高い。ことばも使わないし、映像や絵画のような視覚も、CDで聴く際にはないですよね。目を瞑っても音楽は聴けますから。それゆえに、音楽でしかできないことは無限にあると言えます。僕の音楽って、わりと視覚的なものを喚起するそうなんです。鑑賞者はあくまで自由に想像してくれているんですが、色が見えるとか、景色が浮かぶといったことを言われるので、そういう特徴はあるのかなと思うんです。そういう、わりと抽象的な音に、それほど強い具体性を持たない映像が絡んで、それで何が起こるのか。例えば、音だけで聴いたら終わりのための盛り上がりは、はっきりと感じられる。でも、映像と組み合わせたときには、もしかすると、映像がブレーキの効果を持つかもしれない。それは、向井さんが僕の音楽に重ね合わせながら発想はしているけれど、べったり僕の世界に寄り添っているわけではないからです。映画の音楽でも、いい音楽は実はそうなっています。泣きたいシーンに泣けるような音楽、驚くようなシーンにびっくりするような音楽をつけると、効果はあるでしょう。でも、それはあまり芸術的ではないし、真逆のことをした方が不思議な感覚をつくりだせる場合もある。むしろ、目が肥えた聴衆にはそちらのほうがおもしろいかもしれないですね。このプロジェクトの中でも、その不思議な距離感や立体性をつくっている。だから僕の曲だけを聴きにきてもらうのとは、違う体験ができると思います。

向井:今回の制作の中で、わたしにとって大きかったのも立体性ですね。伊藤さんに寄り添うのではなく、見ていた風景を描くことで2人の間に、何かが立ち上がる感じ。通常、自分の映像演出ができあがると、その作品自体は独立していて、すでにわたしとは距離があるんですね。ただ、その場合、どのように空間が立ちあがるかは、ある程度予測できている。しかし、東京オペラシティリサイタルホールで先生と行なった前回のプロジェクトの際には、もう一歩踏み込んだ初めての体験がありました。初めの1音が出るときに、わたしの想像の域や先生の音楽の域を超えて、ものすごく強い、独立した何か違うものがブワアッと立ちあがる感覚があったんです。自分で手がけたものであるにも関わらず、それは結構初めての体験でしたね。

伊藤:今回は、あらかじめ録音された曲に映像をつけたものと、ライブ演奏に映像をつけたもの、それに真っ暗な中で曲だけが聴こえるもの、と、3つの形態を予定しているじゃないですか。そこで見えるもの、聴こえるものは違うのかということも、見所 / 聴き所としてあるかなと思います。暗闇の中で聴いていただく曲には、ことばも少し絡みますし。

向井:あ、あの曲、ことばがあるんですね。聴いた際に、ことばを言っているのか、音がことばに聴こえるだけなのかが不思議だったんです。

伊藤:ことばを言っているのか、それともただ音を発しているだけなのかよくわからない。そういう風に聴こえるように、仕組んではあるんですよね。ことばが部分的にはっきり聴こえるところと、聴こえたかなと思えるところ、全くほとんどわからないであろうところと、3つあるんです。そして、それぞれの間を揺れ動いている。「揺れる」イメージっていうのは、僕の音楽の1つのテーマなんですが、音響的に揺れるイメージをつくること、それから、ことばの意味を理解できるかできないかの間を揺れ動きながら、時間が推移していることが、今回おもしろいのではないかと自分では思っています。

向井:伊藤さんも予感、予兆をつくっていらっしゃると思うんですよ。伊藤さんの曲が「色が見える」とか、「風景が立ち上がる」と言われるのも、そこにあるだろうものの予感、予兆とか、気配といったものが関係しているんではないでしょうか。わたしの映像も普通の人と比べると抽象なんですが、過去の作品を知っている人には、「迷宮の森」が具象的でびっくりしたと言われます。「迷宮の森」には今までの自分の作品にはない具象性がある。それはやっぱり伊藤さんの音楽の具象性に影響を受けた気がするんです。抽象なんだけれど、そこにどういう森を見ていたかというとても具体的な何か、予兆。それに引きずられるというか、そこからものすごく具体的な森を思い描いたんじゃないかなという気がしています。

伊藤:その視覚も、曲によって何パターンか体験できるわけじゃないですか。演奏家たちが見える状態に、向井さんがつくる映像が見える状態、何も見えない真っ暗な状態のときもある。そこに音楽が絡んだときに、物事がどういう風に体験できるのか。また、前後の視覚に絡んだものを体験しながら、全ての視覚情報を取っ払ったときに、それがどういう風に「見える」か。そういう意味では実験的な展覧会でもありますよね。

我々がやっているような芸術って、通常だとどうしても、10人いたら10人がおもしろがる感じるようなものではなくて、ちょっと知的なものに興味がある人たちに発信しがちです。それはしょうがないかなと思います。でも今回のプロジェクトは、普段は芸術的なものにそれほど興味を持っていない人にとっても、体験しておもしろい場になると思います。わからなくっていいのですよ。でも、日常、普通に朝起きて、ご飯を食べて、会社に行って…という「生活」の時空間では体験できないことが体験できる、おもしろいと感じてもらえるものにしたいですね。

写真:矢島泰輔

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