インタビュー2: 向井知子02

本公演で、映像演出を担当している向井知子氏へのインタビュー。独立した映像と音楽を組み合わせて作品としているのは、どういう意図があってのことなのか。作家ではない相手との対談形式で、具体的な説明を交えて語っています。

向井知子インタビュー02

向井:『In the Dim Light』は、伊藤さんの中にモチーフになった森があるそうなんです。だから、わたしも自分が知らないその森がどういう場所なのか見ておきたいと思って、行ってきました。『迷宮の森』からは、生態系そのものを彷彿とさせる森を思い浮かべたのだけど、『In the Dim Light』のイメージとなった森は、人間がどうやって自然と向き合ってきたかを考えさせられました。厳しくて、怖いような森の中に、小さなお社がたくさんある。それがいわば、自然界と人間界をつなぐインターフェイスになっていて、人間が自然の中に入っていくことを許されているような感じがしましたね。だから、具体的に森を考えると、途方もなく色んな森があるんだなあと。

島崎:「具体的に森を考える」っておもしろいですね。

向井:はじめて伊藤さんの楽曲にインスパイアされて制作したのが『迷宮の森』という曲です。ならば、この企画で我々の映像と音楽を合わせて生まれる多様性を実験するのに、まず、森でどれだけ多様性を見せられるだろうと考えました。それで、実際に森をちゃんと考えてみたら、現実にも森って、色々あったわけです。「森だ、空気だ、水だ、って、何が違うの?」って、思うかもしれないけれども、そんな抽象的な話ではないと思います。例え、見た目が抽象的な表現であっても、それが表現される時点で具体的にそこに映像や音は存在する。表現が抽象的か具象的かということが問題なのではなくて、つくり手はどうやって具体的に実体化できるかっていうことを、すごく考えているので。

島崎:作品を拝見して思うのは、森と一言に言っても、こんなに表情があるんだということ。わたしって全然森を知らないなんだなあと思いました。でもそれって、行ってみないとわからない。「森を想像して」って言われたら、木がたくさん生えている涼しいところを思い浮かべるくらいで、すごく抽象的。やっぱり足で見てきて、それを作品にする行為は、見てきたものを自分のものとして消化することなんでしょうね。

向井:現代音楽って、とても抽象的だと思われることが多いんです。わたしがつくる映像もすごく抽象的だって思われる。でも、ものすごく具体的なものを想像している。見てきたものに似せて描写がしたいのではなく、脳のどこかに染み込んだ体験の記憶、森の光、質感、温湿度、匂い、それがどういうふうにあるかを、空間に引き出したい。例えば森だったら、いつか実際に見たはずの森の在りよう、感触がそこに立ち上がる状態を見たい。

島崎:もしかしたら、向井さんも伊藤さんも、考えていることや見ていることは、わたしたちと一緒の可能性があると思うんです。それを、向井さんだったら映像に、伊藤さんだったら音楽として消化したものを、わたしたちにとってはわかりにくいもの、慣れていないもの、結果として感じているだけなんでしょうね。だから見ているものはみんな一緒の可能性がある。一緒というか、とても具体的な何か。

向井:『響きの森へ』は、2人とも実際の森をモチーフにしていません。でも、それにもかかわらず、伊藤さんの中には伊藤さんの、わたしの中にはおそらくわたしの、ものすごく具体的な森の響きというものが体験としてある。体験っていうのは「自分」がそこに媒体としているから、抽象的であるわけがないんですよね。

島崎:確かに作品だけ見たら、もしかしたら向井さんって、絵の具をぼかしたみたいな感じでものを見たり、光をパッと当てられたまぶしさの強弱で明るさを見たりしているんじゃないかって思ってしまう。でも、普段人間として生活しているんだから、そんなわけないですよね(笑)。

向井:ただ、昔の映像に比べたら、モチーフの見せ方がかなり具象的になりましたね。わたしの映像は、子どものほうがわかることが多い。子どもたちは、本質的なことをすぐ捉えられる感じがします。

島崎:子どもには「わたし」性が少ないからじゃないでしょうか。自我や、表現するための語彙が、大人に比べたら少ない。そういう彼らに綺麗なものを見せたら、それは綺麗なものとして映るんでしょうね。大人はやっぱり、そこに意味を見出そうとしてしまう気がします。「これって何を表しているんだろう」とか「作家の意図は何だろう」とか。

向井:20代につくっていた映像は、今よりももっと抽象的に見えたでしょうけれど、それでも子どものほうが、予感をキャッチするのが早かったですね。次に何が起きるかもしれないという場面の予感や、出会うかもしれないものに対する予感。そういう抽象的な映像を見ても「火みたい!」「これは星だ!」「葉っぱだ!」と、彼らのほうがものすごく、具体的なものを想像している。見たものを自分の知っている何かに見立てて、広がりを持って想像する力がある。そう考えると、ものすごく具体的なものとして捉えられるんじゃないかなあと思います。伊藤さんに見せていただいた『響きの森へ』の楽譜は、すごく綺麗だった。あの視覚性がつくれるのかどうか、ということも考えているので、最終形態がどうなるのかはまだわからないですね。よく「森は森なんじゃないの?」とか、「映像に音をつけるのと、音に映像をつけるのとでは何が違うの?」と乱暴な質問をされることがあるんだけど、そういうことを聞かれるたびに「そんなに簡単なものなの?」って思う。演奏されるのが、アンサンブルなのか、ソロの楽器なのか。それもどの楽器なのか、合唱なのかによっても、きっとその出てくるコントラストは、具体的な違いになる。それは瑣末なことなんかではなく、それごとにつくられていくものは違うと思うんです。それは映像も同じで、フルHDTVのプロジェクターなのか、4Kモニターなのか。あるいは、映像から制作した静止画を印刷して置くのか。それによっても、音とイメージの関係は全く違うものになるはず。だから、そういう質問をされるたびに、「そんなにみんな、乱暴にものをつくっているの?」と思う。丁寧に、1つ1つ、これとこれを組み合わせたら、こんなに違いが出た!っていうのは、憶測の範囲ではなく、具体的にやってみたいんです。

島崎:得意な分野じゃないと特に、頭を柔らかくして考えることは難しいですからね…。わたし自身もそうなのですが、わかろうとしてしまうんだと思うんです。普通に社会に出て、仕事をしていると「わからない」っていけないこと、恥ずかしいことののように思ってしまう。でも、この展覧会に関しては「わからなくてもいい」と伊藤さんもおっしゃっていましたよね。朝起きて、仕事をしたり、ご飯を食べたりっていう普通の生活をしているだけだと、どうしても、体験できない類のこと。一度未知の領域に触れてみると、自分の頭の硬さみたいなことに気づくかもしれないですね。

向井:わたしは、空間演出デザインの勉強をしていたこともあって、物語を編集して映像をつくるやり方がピンときていないんです。 時間軸を編集しているという感覚は全くなくて、瞬間の積み重ねがまずある。建築家が建築空間をつくったり、庭をつくったりする際には春夏秋冬のその風景を想定して、色んなパラメータを決めていくでしょう。 その場所から出会えそうな場面は相当シミュレーションされているし、そこで起き得ることも相当計算している。そこまでした上で発生してくるものを含めて、そのものが完成するんですよね。わたしが映像をつくる感覚も、それにすごく近いと思います。最後にできあがる空間の想定はもちろんしますが、それを超えた色々な可能性が出てくることが、空間演出のおもしろいところだと思っています。

島崎:それって、例えば、場所だったら、どのような人がそこに来るかで違うということですよね。男の人や女の人、それに年齢くらいはある程度想定できたとしても、実際に来る人の具体的なことがわかるわけではない。それに、空間を外でつくった場合だと、晴れ、曇り、雨ということは想定しても、晴れても寒い日があったり、同じ日ってないですもんね。

向井:焼き物にも似ているところはあると思います。釜に入れて待つ感覚というか。この温度にこの釉薬だったら、これしかできようがないというところまでは想定しているけれど、本当のディテールは、できあがって初めてわかる。瞬間ごとのシミュレーションはできているんです。パラメータを決めていくというのは、瞬間を決めていくということ。瞬間として必然的なものを繋いでいる。現実世界で綺麗な庭に座っていて、感動することがありますよね。あれは、その瞬間にハッとすることがあって、美しいと感じている。物語があるからではないですよね。

島崎:確かに向井さんって、写真を撮っているとき、同じ場所にいても「今この瞬間の光の加減が美しい」みたいなことをおっしゃいますもんね。ピンポイントで写真に収めようとしている感じがあります。

向井:映像のある瞬間が、観た方の何かの瞬間を呼び覚ましてくれると上手くいったなあと思いますね。例えば、わたしが雪を撮影して映像に落とし込んだときに、観た人には朝の光だと捉えられてもかまわない。最終的なディテール自体は、自分のシチュエーションと違っていてもいいというか、同じである必要は全くない。

島崎:伊藤さんもそうでしたが、そこに対してお2人とも許容範囲が広いですよね。与える力が押し付けがましくない。「これは雪景色だなあ」といったように、わかってほしいのかと思っていました。

向井:どこの何を写している、とかは全く重要じゃないですね。相手に何かを思い起こせたいというか、コミュニケーションツールでありたい。物語は作品の中ではなく、その場にいた人のほうにあるんです。実際、わたしの映像演出がスイッチになって、「あれは、おばあちゃんちの近くのどこそこの風景だった。」というように、自分の知っているどこかの風景を引き合いに出して、こうだったと、話し始められる方が多いとは思います。さっきも少し庭の話をしましたが、庭に物語を求めないですよね。そこに来た人が、何かを思い浮かべて、感動していくんです。

島崎:今回の展覧会も、そういった意味では庭に近いんでしょうね。普通に生きていると、どうしても日常生活を送るのに忙しくて、時間がないじゃないですか。だからどうしても、映画とか、小説のように、非日常の世界としてわかりやすい、エンターテインメントに走りがち。庭が美しいことは、見たらきっとわかると思うんですが、日常ではもっと即物的になってしまう。でも、旅行をしたときには、普段は興味がない人でも庭やお寺を見に行ったりすると思うんです。そして、そういうものに感動したりもする。それはやっぱり時間に余裕があるから、そういうところに行く、行こうという気持ちになるわけですよね。だけど、本来は余裕がないときにこそ、そういうものを見て「世界は自分の周りのものだけではないんだなあ」と思ったほうがいいのかもしれないと、自戒も込めて思いました。

向井:自分の普段の世界と、距離があるように思われがちなのかもしれないけれど、実際に観た方は「綺麗だった」って、シンプルにおっしゃることが多いです。「難しかった」ではない。誰しもの日常の中で、ひそやかな何かに感動はあると思うんです。それはこう解釈すべきだという理屈じゃない。そういうものを思い出させるような、共主観性、それぞれの異なる体験の中にある普遍性を引き出す場(媒体)を制作していくことが重要だと思っています。それ自体に物語がある訳でなく、それを見た人の中で、記憶の何かが引き出され、これから出会うであろう物語(場面)への予感が生まれる。それが大切だと思っています。

インタビュアー:島崎みのり
音楽の展覧会実行委員会マネジメント補佐。普段は編集を主な仕事とし、カタログや美術館図録の制作を手がける。日本大学芸術学部デザイン学科卒。

写真:矢島泰輔

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